わずか3人ばかりの参加者でしたが、その分じっくりと、中身は非常に濃いものでした。
なぜ坐禅をするのか。
副住職は「私というメガネをはずしてありのままを見るため」とおっしゃいます。
五蘊(ごうん)という、色・受・想・行・識のプロセスを繰り返し、「私」ができあがっていく。
六根(ろっこん)という、眼・耳・鼻・舌・身・意と本来横並びに備わっている感覚が、その中の「意」の仕分け・判断により惑わされていく。
しかし、そもそも、「私」は存在しない。
坐禅をすることは、このことに気づくこと。感じること。
最近、私にとって、とても悲しい出来事がありました。
その体験を背負って、本日の坐禅会に臨んだのですが、奇しくもこのような教えに出会い、この悲しみも苦しみも「私」が作っているものだと、はたと気づきました。
「私」ではなく、ありのまま。
私もあなたも、生きとし生けるものすべて、そして雲も風も町も山々も、すべてが一体。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静
そんな仏教のキーワードがすうっと入ってきた感覚が、坐禅を終えて2日経った、このブログを書いている今も、あります。むしろ、今の方が、よりそんな感じがしています。